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【アニメ感想】京都アニメーションの傑作映画『聲の形』について語るよ

こんにちは、イッキです。

今回は、京都アニメーション制作の映画『聲の形』について語っていきます。

この映画、公開されたのは2016年なんですが、最近になってNHKのEテレで2回も放送されたということがあって、ツイッターでも感想をつぶやく人が多かったんですよね。

そんなわけで、今回は僕が感じたこの作品の魅力を紹介できたらなぁ、と思っています。

あらすじ

『聲の形』は、原作が週刊少年マガジンにて連載されていたコミックで、京都アニメーション制作・山田尚子監督によって映画化された作品です。

あらすじは以下のとおり。

“退屈すること”を何よりも嫌う少年、石田将也。

ガキ大将だった小学生の彼は、転校生の少女、西宮硝子へ無邪気な好奇心を持つ。

彼女が来たことを期に、少年は退屈から解放された日々を手に入れた。

しかし、硝子とのある出来事がきっかけで将也は周囲から孤立してしまう。

やがて五年の時を経て、別々の場所で高校生へと成長したふたり。

“ある出来事”以来、固く心を閉ざしていた将也は硝子の元を訪れる。

これはひとりの少年が、少女を、周りの人たちを、そして自分を受け入れようとする物語――。

(映画『聲の形』公式サイトより)

この作品の見どころ

感動ポルノ?とんでもない

『聲の形』について一番多くある議論は、ヒロインが聴覚障害を持った美少女ということで、

「障害者を感動のための道具として扱った『感動ポルノ作品』ではないか?」

というものですね。

しかし映画を観たらわかる通り、聴覚障害者のヒロインが頑張る姿を見せたいわけではありません。この作品のテーマは「コミュニケーション」です。

登場人物たちは、みんなそれぞれ臆病だったり、不器用だったりして、他人とのコミュニケーションに失敗した過去を持つ人たちなんです。

特に主人公の将也は、小学生の頃西宮をいじめてしまって、その後逆に自分がいじめに遭うという経験をしたことで、他人に対して心を閉ざしてしまいます。

序盤のほうで、将也の周りの人たちの顔に×印が付いて、将也自身は自分の耳を塞ぎ目を閉じる演出があるんですけれども、あれは…

もう他人の顔なんか見ない、他人の声も聞きたくない

ってことですね。ここで彼は一度、他人ときちんとコミュニケーションを取ることをやめてしまったわけです。

この映画は、そんな将也が、最終的に再び他人と向き合い、まわりの「聲」を聞こうと決意するまでを描いた作品なんですね。

 

ラストシーンで「ちゃんとみんなの声を聴こう」と決心した将也は、閉じていた目を開け、耳を塞いでいた両手を離します。

すると周りの人たちの顔から「×」印が剥がれ落ち、将也の耳には、世界を彩る様々な「聲」が飛び込んでくる。

「聲の形」というタイトルの意味が、すべてこの1シーンに集約されているんですよね。BGMによる演出も相まって、何度観ても鳥肌が立ちます。

 

そんな感じで、過去に一度コミュニケーションに失敗してしまった主人公(たち)が、再び他人と向き合って話をしようとする作品として、この『聲の形』はすごく綺麗にまとまっています。

障害者がいじめに遭いながらも一生懸命頑張る姿を見せて泣かせようとする、お涙ちょうだい的な映画では決してないんですよ。

 

原作改変が上手い

個人的に「この映画すごいなぁ〜」と思ったのは、

限られた尺のなかで原作のどのシーンを採用し、どのシーンを削るか、または原作にはないオリジナル要素をどのように加えるか、といった取捨選択

そして、それらをどうつなぎ合わせて1本の映画にするか?

というシナリオ構成の部分がすごく上手いところです。

例えば、原作後半では、主人公たちが映画制作を行なっていて、最後は成人式でみんなと会うところで終わるんですけど…

映画では、それらの場面はごっそりカットされちゃってるんです。そんで、将也たちが文化祭を見て回るシーンを最後に持ってきています。

これによって、先ほど述べた…

「過去に一度コミュニケーションに失敗してしまった主人公(たち)が、再び他人と向き合ってコミュニケーションを取ろうとする」

という作品のテーマがより明確になっているんですよね。

この映画では、そういった原作改変がすごく上手くいっていて、その結果、完成度に関しては原作より数段高いものになっています。

 

聲(音)を描いた細かい演出

山田尚子監督がインタビューや舞台挨拶などで「音にすごくこだわった」的なことを言っていましたが、映画を観るとそれがホントによくわかります。

声(音)というのは、「耳で聴く」というかたちでしか感じることのできないものだと思いがちですが、そうではないんですよね。

この作品のタイトルにある「聲」というのは、耳で感じる「声(音)」以外に、肌で感じる「振動」や、目に見える「波紋」なども表しているように思います。

例えば、小学校時代、植野が校庭でジャングルジムのパイプを手で触りながら歩くシーンがありますよね。

このとき、植野の後ろを歩いていた西宮は、両手でジャングルジムのパイプを握っています。植野が触ったことでパイプが振動し、その振動が西宮に伝わっているんです。

耳の聞こえない西宮にとっては、その振動は自分が感じ取ることのできる大切な他人の「聲」であり、それを感じ取ることは彼女にとってコミュニケーションのひとつである、ということがわかる演出です。

 

それから、音の振動が水面に伝われば、波紋として目に見えるかたちで確認することもできます。

川にパンを投げ込んだり、人が川へ飛び込んだりすると、水面が揺れて波紋が生じますよね。それもまた音の一部、つまり「聲」のひとつでもあるんですね。

西宮が花火の振動を肌で感じているシーンは特に象徴的です。

花火が上空で爆発するときの振動は肌に伝わってくるし、飲み物の表面にも波紋が発生して、目に見えるかたちでとらえることもできます。

こんな感じで、音というものを様々なかたちで表現したシーンが随所に見られました。このような音のいろんな姿も「聲の形」として描いているこだわりがすごいなぁ〜と思います。

上で取り上げたシーン以外にも、似たような演出がいくつもあるので、ぜひ探してみてください。

 

さいごに

心を閉ざしていた将也が、再び周りの人たちと向き合い、みんなの「聲」を聞くようになるまでの物語として、非常に上手くまとめていました。

原作改変やシナリオ構成のうまさは、ぜひ原作コミックを読んで確認してほしいです。

原作には原作の良さがありますが、1本の映画として完成させるために「どこをどう変えたか」を確認する過程で、どちらの媒体も楽しめるはず。

そして、耳で聞き取る「声(音)」だけでなく、肌で感じ取る「振動」、そして目で確認できる「波紋」というふうに、映像的にもさまざまな「聲の形」を演出した巧さ。

改めて京都アニメーションの圧倒的な表現力、そして山田尚子監督の底力を見ることができた、というふうに感じています。